傍に居るなら、どうか返事を


「はい、このまま直帰します。」
 通話が終わり腕を降ろすと、着信履歴の中でチェックしていないものが目に入る。アドレスには入力していない携帯番号は、近頃見慣れたものだったが、響也は無視を決め込んだ。
 連絡は、夕方に入って一回だけ。それから催促の電話も掛かることもなく、こうして深夜になっている。大した用事ではないのだろうと思う事にする。
 響也だとて、遊んでいた訳ではない。寧ろ遊びたいと思う。
 早朝から会議、書類整理、雑務と追われ、夕方からはバンド関係の取材やら打ち合わせ。それが終わると、今度は担当事件の検証。二足の草鞋の大変さは覚悟していたものの、些か疲れも出るというものだ。
 二輪の居眠り運転は、本気で洒落にならないので今日は電車で帰ろうと思い立ち、夜道を最寄りの駅を探して歩く。足取りは酷く重かった。
 夜の繁華街は賑やかで人通りも多い。酒に酔った人々は、すれ違う若造が芸能人だと気付く事もなく通り過ぎていく。
 赤提灯にふらりと誘われる男達の後ろ姿を眺めていれはば、何となく同情心が湧き、サラリーマンの悲哀を二十歳未満で感じる事になろうとは…と愚痴のひとつも零したくなる。地理に精通していない街は響也を迷路に入り込んだ気分にさせ、どうにも堕ちていく意識は、上がって来ない。
 半ばやけくそになりながら看板を頼りに歩いていれば、瞠目するものを見つけて立ち止まった。

「…成歩堂…芸能事務所…?」

 こんな変わった苗字はそうそうないだろうから、これはあの男の事務所だ。
窓から漏れる灯りがついていて住人の存在を示す。肩にかかる書類だらけの重い鞄が、いっそう重みを増した。

Fools rush in where angels fear to tread.

 響也はボソリと呟き、遁走を計るべく、通り過ぎる足を早めた。
どうして、こうまであの男が苦手なのかはわからない。立場的には、告発した自分の方が上という考えかたが普通だろうに。気付けば、成歩堂のペースに呑まれて良いようにされている。
 御免だ、勘弁してくれ。今日は特にへとへとで、虚勢を張る気力など身体の何処からも湧いては来ない。睡眠をとって、もう少しマシな状態になってから連絡をとるから見逃してくれ。
 しかし、こういう時ほど運命は響也を逃がさない。
ガシッと背後から掴まれた肩に、目頭が熱くなったのは嘘じゃない。スターウォーズの悪役たるかの人のテーマ曲が一瞬響也の脳裏に浮かんだ。と同時に、嗤う男の顔が記憶に蘇ったので、敢えて振り向く事もしなかった。

「わざわざ来てくれたの? 嬉しいなぁ、僕。」
「…偶然です。」
「そうか、そうか。今、出涸らしのお茶を入れたところだから上がっていきなさい。」
「遠慮します。」
「手土産がない事なんか気にしなくてもいいからね。また、楽しみにしているよ。」
「アンタの耳は節穴かっ!?」

 強制的に事務所に連れ込まれ、端の欠けた湯飲み茶碗で出されたお茶は、思わず目が覚める程の渋さ。これでは本当に歓迎されているのか、嫌がらせを受けているのかわからない。
 響也は自分で思ったにも係わらず、『嫌がらせ』文字にずくりと心臓を鳴らした。そうなのだろうか。こうやって親しげに見せながら、この男は自分を貶める機会を窺っているのではないのだろうか。
 幾度となくからかわれた事実が思い当たる。
 剥き出しにならない悪意が、とぼけた顔の内面で虎視眈々と爪を研いでいる気がして、響也はじっとりと嫌な汗が滲む手の平を握りしめた。それは何処か恐怖に似た感覚だった。
 
 「…トイレ借りても?」
 唐突に、響也は立ち上がる。
 手っ取り早く、目の前の男から逃れる方法がこれ以外考えつかなかったのだ。
 成歩堂と向き合いたくない一心で、ろくに成歩堂の話しを聞く事なくめぼしい扉を開けた。勿論違う。
 物置のようだった。
 幾重にも積み重ねられた紙束は、絶妙なバランスをもって積み上げられていて、響也が開けた振動で、手前の本がばさばさと床に落ちた。
 拾おうと手を伸ばし、響也は一瞬息を飲む。
昔新聞で読んだ事例が記載されている資料だと気付き、動けなくなる。
「ああ、違う違う、そこは資料庫。トイレはその隣の扉。」
 そして、様子が変わった響也に成歩堂はああと嗤う。
「いいよ。見ても。」
 手に取ってしまっていいのだろうか。脳裏を掠めるのは警告。
 けれど、諸先輩方を唸らせた『逆転男』の生の資料など見る機会は、自分は検事である以上、今を逃せば二度目はないと断言出来た。
 それは、警戒と疲労に好奇心が勝った瞬間。
躊躇いがちに伸ばした指先に触れた資料を捲ると、細かな書き込みに目が奪われる。
「成歩堂さん、これって新聞の記載と違うけど…。」
「ん?ああ、それはさ…。」
 おまけに本人の解説付きだ。夢中にならない訳がない。いつしか響也は床に座り込み、周囲の状況を忘れていた。

 きゃんきゃん鳴いて、威嚇する子犬をやっと手懐けた(ムツゴロウさんの気分)で、成歩堂は響也の背中を眺めていた。夢中になっている横顔が余りにも無防備で、つい笑いが漏れる。
 道を行く響也が、余りにも疲れた顔をしていたのでつい声を掛けてしまったが、家に連れ込めば、余計に警戒心を強めただけ。随分嫌われたもんだと、自分行いを棚に上げて残念がっていたので、これは成り行きとしては悪くない。
 自分が見ている事で、必要以上に緊張感を与えているのを知っていた成歩堂は、深夜のちょっとエッチな番組を見ながら、響也と会話していたのだが、気付くと声が聞こえない。
「響也くん…?」
 改めて振り返る。若き検事は扉に背を預けて眠っていた。


content/ next